2007年05月08日

松坂屋の少年音楽隊

日本にはデパート会社が94社あるといわれ、店舗数は実に全国に263店もあるという。

その数あるデパートで、一番歴史があるのは名古屋の松坂屋。

清洲から尾張名古屋にお城が移って、1611年に「いとう呉服店」が創業されたのが、日本最古といわれている。

次いで、越後屋呉服店、後に西洋文化を取り入れて、三越として近代式の百貨店としては、日本初とも言われる。

百貨店は様々イベント、アトラクションに工夫を凝らし、松坂屋は少年音楽隊を創設した。

これが後に東京フィルハーモニー交響楽団となった。

バブルが崩壊して、最近すっかりメセナという言葉が聞かれなくなったが、松坂屋の社会に対する文化的貢献は、素晴らしいものがある。

百貨店はただ多くのモノの売っている小売業とは違う日本の生活文化を作ってきた歴史がある。

特に名門百貨店には、その歴史が今の息づいているのではないのか。

ちなみに阪急百貨店は、少女を集めて、宝塚唱歌隊を設けて、これが後に宝塚歌劇団として今日の隆盛を導いた。

http://www.honten.jp/column/tb.php?ID=987
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2006年09月03日

ビルマのオッタマ僧を支援

ビルマの高杉晋作がオン・サン将軍なら、ビルマの吉田松陰はオッタマ僧。

オッタマは留学先のイギリスから帰国すると、今度は日本にやってきました。

日露戦争で、なぜ日本が大国ロシアに勝ったのか・・1910年のことでした。

まず京都・浄土真宗本願寺の探検家でもあった大谷光瑞を訪ね、そこから東京まで各界の人たちに接しようと、東京まで歩く予定でました。

たまたま名古屋で大きな葬式に出くわしました。

オッタマにとって日本の葬式は珍しい。

門の前でじっと様子を眺めていると、家人がカーキ色の法衣をまとった旅僧のオッタマを見つけ、ありがたそうに、お経のひとつでも上げてもらえれば、功徳になると、丁重に家に招きいれました。

この家の当主は、オッタマに魅せられ、家に引きとめ、オッタマは何日も滞在しました。

この当主こそ、松坂屋伊藤次郎左衛門でした。

伊藤次郎左衛門は名古屋の豪商。オッタマを3年間、面倒を見て、妹まで日本に呼びました。

伊藤次郎左衛門はオッタマを精神的も、経済的にも支援したのでした。

オッタマはその間、日本を学び、東大で教壇にも立っています。

当時のビルマはイギリスの植民地。オッタマはその独立のために日本で学びました。

第2次世界大戦後、独立を果たしたビルマはその後、ミャンマーとなったが、鎖国のような状態でも、伊藤家への恩義を忘れず、関係者は入国するのも容易な手続きですむようです。

さすがは、歴史のある松坂屋です。
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2006年07月03日

徳川宗春の規制緩和

尾張藩の七代藩主徳川宗春は、芸どころ名古屋の礎を築いたお殿様です。

父は尾張徳川家3代徳川綱誠、母は側室の梅津(宣揚院)。

宗春は藩主に就任すると、自身で『温知政要』を書いて、『行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる』『規制を増やしても違反者を増やすのみ』などの主張を掲げました。

質素倹約を基本方針とする吉宗が推進する享保の改革、緊縮政策に反対し、名古屋城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど自由放任政策を打ち出して開放政策を採りました。

厳しい倹約令の中、あえて派手な催しを演じ、庶民の喝采を浴びるとともに、領主があえて浪費することによって経済の活性化を図ろうとしたのでした。

ですが、宗春の思惑とは違って、尾張藩士民は緩み、財政も赤字に転じました。

時あたかも将軍吉宗の享保の改革が行き詰まり、米価政策に失敗し、貨幣を改鋳。

藩重臣は宗春失脚を画策して、幕閣と連携を取り、1739年(元文4)に宗春は吉宗から隠居謹慎を命じられ、名古屋城三の丸に幽閉され、後継は美濃国高須藩主の松平義敦(徳川宗勝)となりました。

宗春の時代、時の将軍吉宗のとは反対の政策で、名古屋を繁栄に導いたと同時に、尾張藩ではひとりの処刑者も出さないという平和な時代でした。

松坂屋の前身、いとう呉服店もこの恩恵に預かったようです。

いとう呉服店は、1736年(元文元年)、呉服小間物問屋から呉服太物小売業へ業態を転換しました。

このとき「現金かけねなし」という正札販売をはじめ、商業帳簿をはじめ、掟書も定めたといいます。

その4年後には尾張徳川家の呉服御用達になり、松坂屋の今日の礎を築き上げました。

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2006年06月30日

日本で一番歴史のある松坂屋

日本で一番歴史が古い百貨店は、松坂屋です。

松坂屋が誕生した慶長16年という年は、関が原の戦いで徳川側が大勝して11年目、家康はまだ健在で69歳という年齢でした。

時代は、戦乱から安寧(あんねい)へと切り替わろうとしているそんな転換期にいとう呉服店(後の松坂屋)は、誕生したのです。

400年の歴史を持つ百貨店は、日本において松坂屋を置いてほかにありません。

それが、名古屋に誕生したのです。

三越も歴史のある百貨店です。

ですが、松坂屋誕生の後、62年後のことです。

もう少し、詳しく言うと、松坂屋の前身、いとう呉服店は、実は一度、家業が中断しており、それを遡ると、織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道(すけみち)は、1611年(慶長16年)に、清須から新しく城下町を築きつつあった名古屋に移りました。

いわゆる清須越ですが、そのとき欄丸は名を源左衛門と改め、名古屋の本町に店を構えて呉服小間物商の看板を掲げました。

これが、松坂屋の前身であるいとう呉服店の始まりです。

松坂屋の歴史を遡り、正確に言えば、ここに松坂屋の起点があったのです。

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2006年06月29日

大坂夏の陣で家業中断

慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌・慶長20年(1615)の夏の陣と、2度にわたって亡き豊臣秀吉と徳川家康の最終決戦が行われました。

夏の陣の戦端が開かれたのは、大坂城よりずっと南の玉手山。

豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃って討ち死にした地でもあります。

松坂屋のご先祖様、伊藤源左衛門が戦死したのは、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣でした。

このとき源左衛門は義によって秀吉の遺児秀頼を総大将とする豊臣方に加わりました。

源左衛門は、その配下の武将後藤又兵衛基次のもとに馳せ参じ、後藤隊は、秀頼に大和口の先手を命じられて、伊達政宗の軍勢と戦い、戦死を遂げました。

これにより松坂屋の前身いとう呉服店は、窮地に追い込まれ、家業が中絶。

1659年(万治2年)になって、元服して次郎左衞門と名乗った遺児祐基(すけもと)が、茶屋町に呉服小間物問屋を再興しました。

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2006年06月28日

松坂屋創業者は織田信長の家臣、欄丸

松坂屋の歴史を調べてみると、それはそれは深い。

松坂屋の創業者・伊藤蘭丸祐道(すけみち)の父・祐広(すけひろ)は、小姓役(こしょう)として信長に仕え、蘭丸を名乗っていといいます。

小姓(こしょう)というのは、昔、貴人のそば近く召し使われて種々の雑用を受け持った者。

多くは少年で、男色の対象ともなったともいわれます。

時代劇などでよく殿様の後ろに刀を持って控えている少年がそれです。

蘭丸と言えば織田信長に仕えていた森蘭丸が有名ですが、その欄丸とは違うようです。

蘭丸という名は、信長が名付け親になったといわれています。

織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道(すけみち)は、1611年(慶長16年)に、清須から新しく城下町を築きつつあった名古屋に移りました。

これを、いわゆる清須越と呼ばれます。

そのとき欄丸は名を源左衛門と改め、名古屋の本町に店を構えて呉服小間物商の看板を掲げました。

これが、松坂屋の前身であるいとう呉服店の始まりです。

松坂坂屋の歴史は戦国時代にまで遡ります。

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2006年06月26日

エレベーターガール登場は松坂屋が初

制服、土足入場、エレベーターガール・・・今ではあたりまえのことですが、 初めて松坂屋が取り入れました。

制服は1918年(大正7年)、縞の木綿にモスリンの帯という和服スタイルで、規定縞と呼ばれていました。

この規定縞の制服は、1923年(大正12年)に大阪店がオープンした際、大評判となったとか。

土足入場に踏み切ったのは、1924年(大正13年)、松坂屋銀座店が最初のこと。

百貨店の発達史上一時期を画するといわれています。

誰もが立ち寄れる店舗として、以後、百貨店の大衆化が進みました。

エレベーターガールを登場させたのは松坂屋上野店。

関東大震災後の新店舗が開店した1929年(昭和4年)4月1日。エプリルフールです。

松坂屋は、さまざまなアイデアで日本の百貨店のフロントランナーとして、その先陣を切っていました。

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