2006年07月03日

徳川宗春の規制緩和

尾張藩の七代藩主徳川宗春は、芸どころ名古屋の礎を築いたお殿様です。

父は尾張徳川家3代徳川綱誠、母は側室の梅津(宣揚院)。

宗春は藩主に就任すると、自身で『温知政要』を書いて、『行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる』『規制を増やしても違反者を増やすのみ』などの主張を掲げました。

質素倹約を基本方針とする吉宗が推進する享保の改革、緊縮政策に反対し、名古屋城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど自由放任政策を打ち出して開放政策を採りました。

厳しい倹約令の中、あえて派手な催しを演じ、庶民の喝采を浴びるとともに、領主があえて浪費することによって経済の活性化を図ろうとしたのでした。

ですが、宗春の思惑とは違って、尾張藩士民は緩み、財政も赤字に転じました。

時あたかも将軍吉宗の享保の改革が行き詰まり、米価政策に失敗し、貨幣を改鋳。

藩重臣は宗春失脚を画策して、幕閣と連携を取り、1739年(元文4)に宗春は吉宗から隠居謹慎を命じられ、名古屋城三の丸に幽閉され、後継は美濃国高須藩主の松平義敦(徳川宗勝)となりました。

宗春の時代、時の将軍吉宗のとは反対の政策で、名古屋を繁栄に導いたと同時に、尾張藩ではひとりの処刑者も出さないという平和な時代でした。

松坂屋の前身、いとう呉服店もこの恩恵に預かったようです。

いとう呉服店は、1736年(元文元年)、呉服小間物問屋から呉服太物小売業へ業態を転換しました。

このとき「現金かけねなし」という正札販売をはじめ、商業帳簿をはじめ、掟書も定めたといいます。

その4年後には尾張徳川家の呉服御用達になり、松坂屋の今日の礎を築き上げました。

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アイデアマンの三井高利

三越は、延宝元年(1673)、三井高利(三井家の家祖)が江戸本町1丁目に越後屋呉服店を開いたことに始まります。

越後屋呉服店で有名なエピソードがあります。

当時の呉服店では、前もって得意先の注文を聞き、後から品物を持参する見世物商いと、直接商品を得意先に持参して売る屋敷売りで商いをしておりました。

支払いは、盆・暮の節季払いか、年1回の極月払い。

大名、武家、大きな商家を得意先に、支払いは、6月と12月の二節季払い(にせっきばらい)、または12月のみの極月払い(ごくげつばらい)という掛け売りでした。

人手も金利もかかるので、当然商品の価格は高く、資金の回転も悪かったのです。

そこで高利は当時の商法を覆す掛け値なしの店頭での現金取引き「店前現銀売り」を行いました。

これが大ヒット。庶民が越後屋に足を運びました。

天和3年(1683)には両替店を開設しました。

当時、幕府は、近畿以西の直轄領からの年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していました。

また江戸商人は、京都や大阪で仕人れた商品の代金を、現金で上方へ送っていました。

しかし、正貨輸送は労賃がかかるほか、危険の多い不便なものであったため、高利は幕府にこれに代わる新しい為替取組みの新しい方法を創案しました。

こうして三井両替店は、幕府の金銀御用達としての地位を得ることになったようです。

三井高利はアイデアマン、かなりのやり手でした。

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